当院のご紹介

はじめまして!
「竹宮医院」三代目院長の竹宮孝子です。

正確に言いますと、はじまりは60年ほど前に
祖父母が立ち上げた「竹内医院」でした。
初代院長は祖母のスムさんです。

竹宮医院を紹介させていただくために
少し昔のことをお話させてくださいね。

祖父の竹内侑さんと祖母の竹内スムさんは、
鹿児島の菱刈という田舎で暮らしていました。
スムさんが診療所を開業し、
侑さんは県庁に勤めていたそうです。

侑さんは熊本大学医学部を出て
軍医として戦争に行きました。
戦地で病気になったりもしましたが
なんとか無事に生きて帰ってきて
戦後は保健所関係の仕事をしていたそうです。

スムさんは東京女子医大の前身の
東京女子医専を出て小児科医になりました。
昭和初期の話です。旧姓は横尾といい、
長崎の実家は江戸時代から続く藩医だったとか。

女子医専では創設者の吉岡彌生先生に
かわいがっていただき、当時の女性では珍しく
熊本大学助手のポストを得て
武者修行のつもりで熊大に行ったそうです。

スムさんとしては、東京に戻って
女子医大に貢献するつもりだったそうですが、
でも熊大で侑さんが一目ぼれしたことから、
人生が大きく変わったそうです。

そんな竹内家に男子はいなく3人姉妹でした。
母の敏子は長女で、母も東京女子医大卒。

妹たち2人も東京に来て暮らし始めたため、
3人の娘たちはもう鹿児島には戻ってこないと
祖父母は悟ったのだと思います。
菱刈での仕事をたたんで東京に出てきました。
まず決断したのはスムさんでした。

そして練馬区南大泉に診療所を開業しました。
昭和36年頃の話です。

今の私の年齢と同じくらいの50歳代後半で
東京にもう一度出ることを決め、
新しい土地で診療所を開設したという
スムさんの行動力にはびっくりです。

スムさんは私と60歳違いの巳年生まれ。
小さい頃によく聞かされたのは、

「60年違いの同じ干支は最も縁が深いのよ。
かこちゃん(私)とおばあちゃん(スム)は
似たもの同士。いつでもつながってるからね」
という言葉でした。

たしかに私はスムさんと同じ50歳代後半で
新たな道を選択すると言う行動に出ました。

今思うとスムさんが背中を押してくれたのかも…
あ、もちろん侑さんの応援も感じてます(^^)

話がそれましたが、その後昭和39年に
我が母竹内敏子さんは父の竹宮隆さんと結婚し
苗字が竹宮になりました。

敏子さんは65歳定年まで女子医大に在籍し
最後は教授まで勤めていましたから、
祖母が亡くなってから定年までの13年間は
母と私の2人で何とかやりくりしながら
診療所を続けていました。

そして、母が定年した後の20年は母中心に
竹宮医院はまわっていました。
母は85歳すぎまで、がんばりました。

私は昭和40年にこの地で生まれ育ちました。
敏子さん、隆さんが忙しかった分、
スムさんと侑さんに大事に育ててもらいました。

いまの診療所はずっと私の生活の場でした。
小さい頃から診療所の中を走り回り、
大きくなると祖母の手伝いもしていました。
当時は薬を調合し分けて包装するのも
なんでも診療所内でやっていましたから。

だから、今でも診療所にいると、
当時のことを思い出し温かい気持ちになります。

母は一昨年まで外来に出ていました。
でも、さすがに85歳を過ぎると体力は衰え、
外来翌日は寝込むようになってきました。

私はといえば、
そもそも竹宮医院を継ぐという意識はなく…
なので女子医大の中でキャリアを積んでいました。

しかし、私は55歳の時に准教授で
大学を退職することになったんですよね。

大学でやり残しが全くなかったかというと、
そんなことはないんです。
やりたかったこともたくさんあるし、
やりかけだったこともあるんです。

でも、人生にはやっぱり
選択を求められるタイミングもあったりします。

それで私の場合は、
大学を退職するという選択をしたわけです。

でも、ひょっとしたら『選択をした』というよりも
『選択をせざるを得なかった』と言いたい自分も
いるのかもしれないのですが(笑)

だから大学を辞めたあとは迷走もしました。

竹宮医院が自分の拠点という感じもしなくて
こまぎれの時間に母の手伝いをしている感じでした。

でも、なんですかね、、、
今はこの診療所に帰ってきたのかなという気もして
だからこうしてご挨拶を書かせていただいています。

少し前置きが長くなりましたが、
そう考えてみれば、
祖父母の時代は「竹内医院」で、
母と私の代は「竹宮医院」です

だから、
「竹」つながりだなって思ったりします(^^)

あ、ちなみに、
私は一度結婚して苗字が変わりましたが、
5年くらいですぐ元に戻りましたので、
母の代も、私の代も 竹宮医院です(笑)

それから私にはひとり娘がいます。
でも、彼女は医師にはなりませんでしたので、
「竹宮医院」は私の代で終わりかもしれません。

リニューアル早々に、終わりの話をするなんて、
と思われるかもしれません。

でもね。人って必ず死ぬんです。

それがいつなのかも、その原因がなにになるかも、
あらかじめ知ることはできないんです。

それが事実なんだなって、最近実感しています。

でも、今の世の名には、
その事実を見ないようにしようとしたり、
人の目に触れないように隠したりする傾向があります。

でも、そうすることで
よけいに不安は広がってしまう気がします。

一方で、それを当たり前のように受け止めたり、
またはそういう話ができる相手が近くにいると、
不安は減っていくんじゃないかと思うんですよね。

もちろん、この不安は減ることはあっても
なくなることはないと思っています。
だって、誰もあっちの世界を見たことがないのだから。

新しい世界にひとりで旅立っていくのだから
不安に感じるのは当たり前。
だからその不安は消えることはないはずだけど、
いま、生きていて感じる不安は減るかもしれない。

そしたら今より穏やかな毎日になるかもしれないし。

たとえば、
今よりご飯が美味しく感じられるようになるとか
笑う時間が増えたりとか
家族と話す時間が増えたりとか。

私はこの竹宮医院で、
そういうことで、ちょっとでもお役に立てたら
嬉しいなって思ったりしているところです。

私もみなさんと一緒に健康を維持して、
あと20年くらいはがんばろうかなって思ってますけどね。

だけど、私もいつ死ぬかわからないし、
だから、私がいなくなっても
私のところに来てくれている患者さんたちが困らないよう
準備をしながら毎日を過ごしていきたいと思っています。

そんな感じですが、ここで少し
「竹宮医院」の診療方針を書かせてくださいね。

今回少し診療所の施設設備をテコ入れしましたが、
機器の初期投資は最低限に留めました。
そして院内処方は続けることにしました。

また、診療は全て私がします。
血圧測定も採血も注射も診察も全てです。
看護師はいなくて受付のお手伝いだけ頼んでいます。

なぜこういう体制にしたかというと、
その理由は簡単です。

やりたいことをできるようにして、
やりたくないことをできるだけしたくなかったから。

やりたいのは
患者さんに安心して診察に来ていただき、
私は診察に集中できること。
そして診療後は患者さんに気分よく帰ってもらう。

やりたくないのは
いろんなことを気にしながら診療をすること。

うちにない検査が必要な時には
練馬区医師会にある検査センターや
提携している大きな病院で
検査ができる体制にしていますので
どうぞ安心してください。

また、精密検査や専門家の診察が必要な時は
必要に応じて専門医にご紹介します。
各方面の専門医の人脈はありますので、
こちらもご安心ください。

例えば、病院で言えば
順天堂大学医学部付属練馬病院
東京女子医科大学病院
などの大学病院
四谷メディカルキューブ
佐々総合病院
大久保病院
などの中核病院
患者さまの状態とご希望に沿って
一緒に紹介先を考えていきます。

一方で、電子化にもこだわりました。
オンライン資格確認や電子カルテを導入し、
オンライン診療やオンライン予約も
ひとつのサイトでできるようにしました。

なるべく便利に効率よく受診していただき、
不安を減らせるようにしたいと思っています。

もちろん、オンラインは苦手という方には
ご本人がパソコンやスマホを使わないでも
こちらで対応できるようにしています。
今まで通り、電話やファックスで十分ですので
ご安心くださいね。

最後に診察時間と予約制について
少し説明させてください。

診察中は患者さんの顔を見て話したいし
診察にも時間をかけたいと思っています。

でも、電子カルテには慣れていないので、
その入力に5分くらいかかってしまいます。

なので、診察10分、カルテ入力5分で
お一人に15分の診察と考えています。

一方当院の狭い待合室での感染予防を考慮し
みなさんの貴重な時間もムダにせず
診療には平等に15分使うようにするには
どうしたらいいか?

いろいろいろいろ考えた結果、
予約制にするという結論に至りました。

ふらっと来たい方には申し訳ありませんが、
これらの事情をご理解いただければ幸いです。

もちろん緊急の時は迷わずお電話くださいね。
予約しかダメということではありません。
まずは、すぐにお電話ください。

という感じで、
竹宮医院の歴史とこれからについて
今の気持ちを中心に書かせていただきました。

これからもよろしくお願いいたします。

2023年1月

竹宮医院
竹宮孝子

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